100日後にスペインに行く人

スペイン語初心者の学習記録

また明日

スペイン語で「また明日」という挨拶は Hasta mañana と言う。直訳すると「明日まで」という意味になる。mañana明日という単語、それは確かなのだが、困ったことに mañana にはという意味もある。例えば「私は今朝マドリードに到着した」は He llegado a Madrid por la mañana だ。

 

じゃあ「明日の朝」はどうなるんだって? これはなんと

mañana por la mañana

なんていう表現があるくらいだ。もっとも、実際には primera hora de la mañana (明日の最初の時間帯)といった別の表現が好まれている。

 

それに、文法的に区別することも可能で、名詞として使われるときは morning 副詞として使われるときは tomorrow の意味になる。

 

...と、ここまでならば、ただのスペイン語トリビアといったところだが、言語とは奥が深いもので、古文の授業で一度は習う「古今和歌集」に、以下のような句が収められている。

 

今こむと いひて別れし朝より 思ひくらしの 音をのみぞなく

 

ここに出てくる「朝」だが、なんと「あした」と読み「明日」を意味するらしいのだ。どうやら高校古文の基礎的知識らしい。すっかり忘れてしまったが、そうだったような気がしなくもない。

 

ではなぜ、同じ単語が2つの時間帯を指すようになったのだろうか?

 

ネットのブログの引用になってしまうのだが、この投稿を読んでみてほしい。

 

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

現代の時制は、「朝→昼→夕」という朝を基点とするのが普通ですが、古代日本には「ゆふべ(夕)→よひ(宵)→よ(夜)→あかとき(暁・明け方)→あした(朝)」と夕方を基点とした時制の感覚があったことが知られています。

このように、日本語では morning の意味が転じて tomorrow になったという説があるようだ。

 

ではスペイン語はどうだったのだろうか?

 

spanish.stackexchange.com

この投稿のタイトルは「"mañana" は前はどんな意味だったのですか? "翌日" それとも "1日の最初の時間帯"? もう一方の意味はいつどのようにして生まれたのですか?」と書かれている。

 

ラテン語では元来、これら2つの時間帯には別々の単語が使われていたとのこと。それが中世になって morning を表す単語 が、徐々に tomorrow の意味としても受け入れられていき、それまで使われていた cras という単語を置き換えていったようだ。

 

今となっては想像しがたいが、時計、それから「時間」という概念は近代文明の産物である。これらが全国津々浦々に普及するまでは、人々の間での過去・現在・未来といった概念は、もっと大まかで漠然としたものだったのかもしれない。そう考えれば、朝と明日が同じ単語で表されることへの違和感は、いかに現代人が時間に縛られて生きているのかを象徴しているかのように思えてくる。

新鮮な日本語

日本語では、外国語の単語や人名・地名を、カタカナを使って表現することが多い。カタカナは表音文字なので、現地語の発音をそのまま日本語に取り込むことができるからだ。そのため、Coca Cola というアメリカの飲料ブランドは「コカコーラ」と表記できるし、現在の米大統領の名字 Biden は「バイデン」と書き表せる。何を当たり前のことを、と思うかもしれないが、表音文字がない中国語では、それぞれ「可口可乐」とか「拜登」のように、当て字を使う必要がある。誰がどのようにして当て字を考案しているのか、大変興味深いが、ともかくカタカナというのは、外来の概念を取り入れるに当たってとても便利なツールと言える。

 

さて、スペインには Siesta という独特な習慣がある。Siesta は、昼食を食べた後に取る昼寝、さらには昼寝をするための長めの昼休み、また昼休みに仕事場から一旦帰宅する習慣、といった概念を包含した単語だ。こうした文化的背景を持つ単語は、単に「昼寝」や「昼休み」といった日本語の単語で置き換えるのはナンセンスである。結果として「シエスタ」のように、カタカナで音だけを表現するという手法が取られている。こうした「カタカナ語」は、発音のみを取り入れて、漢字による意味づけがなされていないため、言語学的な定義はともかくとして、素人の感覚では「日本語の単語」と呼べるのか微妙だと感じる*1

 

さて、こうした事例から導かれるのは、ある言語の語彙には、その言語を話す人びとの間に、対応する概念が必ず存在しているということだ。言い換えれば、その言語圏に存在しない概念を表すような単語は存在しない。

 

先ほど例に出した Siesta の場合、日本語話者の間には、日常的に昼寝をしたり、昼休みを長く取るといった行為や習慣が存在しない。したがってスペイン語の Siesta に対応する日本語の語彙は存在しないし、存在する必要性が無かったというのが正しい。

 

また「米」と「ごはん」は、英語ではどちらも rice と訳される。米を主食としている日本語圏では、日常生活を送る上で両者を区別する必要性が高かったため、別々の単語が使われるようになったが、英語圏にはその必要性が低かったということだ。このように、訳語が存在するものの、1対1ではなく、1対nの関係になっている場合もある。これも、言語が文化的背景と強く結びついている証左と言えるだろう。

 

前置きが長くなったが、対応する概念が日本語圏に存在しない単語は、カタカナ表記で日本語に取り込まれるケースが多いように感じる。カヤック、ダイビング、バーベキュー、アコーディオン、スパゲッティ、キルト*2・・・。裏付けとなるデータがないので断定はできないが。

 

しかし一方で、漢字を使った「訳語」が生み出されることもある。明治時代には、西洋の概念の流入に伴って、例えば福沢諭吉が Liberty の訳語として「自由」という単語を考案した。これらは和製漢語とも呼ばれ、漢字発祥の国・中国にも逆輸入されている。近年でも学術分野などを中心に新たな訳語が生まれており、最近では日本遺伝学会が dominant / recessive の訳語を「優性・劣性」から「顕性・潜性」に変更したことが注目された。元の単語の意味を解釈し、ふさわしい漢字を組み合わせて単語をつくる(この場合、誤解を招きかねない「優性」の優の字に取って代わる、別の字を探す)というプロセスが行われていたというわけだ。カタカナと異なり、漢字には字そのものが意味を持っているため、初見でもある程度意味を推測することができるという強みがある。


そのほかに「複合語の直訳」とでも言うべきものがある。例えば Climate Change という2単語からなる複合語は「気候変動」と訳されるが、これは1単語ずつ訳を当てたものといえる。複合語は修飾・被修飾の関係になっているので、自由・顕性・潜性といった複合語でない単語に比べて、より一層意味を理解しやすいはずだ。

 

しかしである。漢字を用いた訳語がカタカナ語に比べて理解しやすいといっても、その言語圏、あるいは自分自身の中に対応する概念が無ければ、やはり受容しづらいことには変わりがないはずである。気候変動は、今やニュースでもよく耳にするし、熱中症や異常気象、自然災害といった形で、多くの人が身近な問題として感じている現象だろう。では「再帰関数」とか「破壊的代入」はどうだろうか。あるいは「自己免疫性後天性凝固因子欠乏症」は?

 

それぞれコンピュータサイエンスと医学の用語で、どちらも外国で生まれた単語の訳語のはずだが、背景知識がなければ理解しづらいはずだ。それでもきっと、日本のエンジニアの誰かしらは今日も再帰関数のコードを書いているだろうし、自己免疫性後天性凝固因子欠乏症に苦しんでいる難病患者も国内に何人もいるのだろう。

 

しかしながら、漢字で表記された単語でありながら、国内にひとつとして存在しない概念を表すものもある(これが今回の主題なのだが、前置きがずいぶんと長くなってしまった)。たとえば「大統領」という単語は、日本の小中学生でも当然のように知っているはずだが、この国に「大統領」なる役職は存在しないし、存在した歴史もない。なお、President は先に述べた1対n対応の単語で、大統領の他に社長、学長、国家主席など、さまざまな対応がある。

 

「枢密院」というと、なんだか推理小説か何かに出てきそうな響きだが、イギリスで国王への助言を行う諮問機関 Privy Council の訳語で、実は戦前までは日本にも存在していた。「国家警察」はどうだろう。スペインでは、国と市町村が別々に警察を設置している。そのことを知らなくても「国家」と「警察」からなる複合語なので、意味の推測はつくはずだが、聞き慣れない響きで新鮮味があるはずだ。あるいは、古い洋画が好きな方は、20世紀初頭の「禁酒法」時代のアメリカをご存知だと思うが、禁酒法なる法律は我々の間には存在した試しがない。

 

なお「日本語圏」という言い回しを所々で使っている理由は、言語圏と国家は本来一致するものとは限らないからだ。確かに日本語が公用語の国は日本しかない。しかし、例えば19〜20世紀に日本から多くの移民が渡ったブラジルでは、入植する農園が割り当てられることを「配耕」とか、引き上げることを「退耕」と呼んだりするそうだ。これらはまさに、漢字も発音も日本語ではあるものの、現地の事情に即して生み出された、ブラジル生まれの単語である。

 

このように「漢字で書かれた日本語の単語なのに、対応する概念が日本語圏に存在しない」というのは、知的好奇心をくすぐる面白いテーマだと感じた。

*1:情報技術分野では、多くの単語がカタカナ語で取り入れられているために、日本人のITリテラシーが低い原因となっているとの指摘もある。早速ながら「リテラシー」とはなんぞや...。

*2:スコットランドの伝統衣装。スカートのような見た目だが、男女問わず身につける。

階数の謎

私の住んでいるアパートメントのエレベーターには、日本やアメリカでは見慣れないボタンが2つある。「PB」と「PRAL」だ。そして私が住んでいるのは4階だが、パティオから外を見下ろしてみると、地上から4番目の高さにあるわけではないことに気づく。 

 

エレベーターの行先ボタン

 

まず前提として、ヨーロッパでは、地上階を「0階」とするのが一般的だ。この呼び名は国や言語により異なり、イギリスでは Ground floor、スペインでは Planta Baja と呼ばれている。エレベーターにある「PB」のボタンは、この頭文字だ。

 

では「PRAL」とはなんだろう?これは Planta Principal の略称だ。企業の「本社」のことを Oficina principal と呼ぶように、スペイン語の principal という単語には「他のすべてに優越する」といった意味合いがあるように思う。

 

かつてエレベーターが一般的ではなかった頃、階段を上らずに済む低層階は人気かつ高価だったそうだ。逆に高層階や屋根裏部屋は、使用人であったり、どちらかというと貧しい人のための部屋だったという。低層階が便利なことは疑いようがないものの、地面と同じ高さの階には欠点がある。道路に面していて、騒音がうるさかったり、ほこりが窓から入ってきたりしただろう。そこで、地上から1つ上の階が、快適さと便利さを兼ね備えた Planta Principal として重宝されるようになったそうだ。

 

改めて階数と呼び名を整理してみよう。地面を基準として、順に Planta Baja (PB)、Planta Principal (PRAL)、1階、2階、3階…となっている。つまり、表記上の「1階」は、実際には3階に相当し、私の住んでいる4階は6階に相当することになる。

 

それならば、Planta Principal の次は「2階」でもよかったのではないか、なぜ紛らわしい「1階」という名前なのか、という疑問については、質問掲示板 Quora にとあるユーザーからこんなコメントが寄せられていた。いわく、実際の高さよりも低く見せかけると、セールストークをするのに好都合だったからではないか?というものであるが、真相のほどは定かではない。

 

ちなみに私のアパートメントは建設当初からエレベーターが設置されていたようなので、すでに Planta Principal の優位性は薄れてしまっていたと思われる。とはいえ、外壁の色や窓の造作がこの階だけ違っているのは、かつて Planta Principal が貴ばれていた時代の名残りなのかもしれない。

エラスムス

エラスムス」をご存知だろうか。ネットで検索すると、15世紀オランダの人文学者が出てくるが、ここで紹介したいのは「エラスムスプログラム」という、欧州圏内の交換留学制度である。

 

エラスムスプログラムは、1987年に発足した包括的な人的交流プログラムで、そのうち学生向けの事業は、欧州圏内の学生が3か月〜12か月間、他大学に留学できるというものである。その間は学費が免除され、さらに奨学金をもらうことができるそうだ。日本では各大学が独自に協定校交換留学制度を設けているケースが多いと思うが、こうした広範囲な人的交流プログラムは、学生により多くの選択肢を提供できるだけでなく、ネットワークやノウハウの蓄積・継承といった点でも非常に魅力的だと感じる。

 

ヨーロッパ各地には、エラスムスの学生のコミュニティが存在する。詳しい内情はよくわからないが、現地の大学に通う学生や、過去のエラスムス参加者などが中心となって、現地での住居や生活のサポートや各種イベントの企画を行なっているそうだ。私はエラスムス生ではないが、Instagramで主催者にコンタクトを取ってみたところ、WhatsAppのグループに気前よく招待していただいた。ビルバオでは Aste Nagusia / Semana Grande という年に一度のお祭りが行われている。ちょうど大学の学期が始まる前で、エラスムス生たちのウェルカムシーズンと重なるため、ミートアップイベントでは世界各国から集まった多くの学生と出会うことができた。

 

せっかくなので、WhatsAppグループの連絡先情報にある電話番号をもとに、今現在(これからもっと増えるらしい)どの国の学生が何人いるかを集計してみた。実際に彼らと会った時の感覚とある程度合致しているが、ヨーロッパが最も多いのは当然として、次いで中南米が多い。エラスムスプログラムは、近年少しずつ対象地域を広げているようで、その影響もあってかスペイン語圏からの学生が目立つ。また少数ながらアジアやオセアニアからの学生もいるようだ。

 

 

国番号
国名
人数
30 ギリシャ 1
31 オランダ 5
32 ベルギー 2
33 フランス 10
34 スペイン 21
353 アイルランド 3
358 フィンランド 1
370 リトアニア 1
371 ラトビア 1
372 エストニア 1
386 スロベニア 2
39 イタリア 6
40 ルーマニア 1
420 チェコ 2
421 スロバキア 1
44 イギリス 4
45 デンマーク 3
46 スウェーデン 6
47 ノルウェー 1
48 ポーランド 3
49 ドイツ 20
51 ペルー 2
52 メキシコ 2
54 アルゼンチン 2
55 ブラジル 2
57 コロンビア 2
591 ボリビア 2
61 オーストラリア 1
81 日本 2
82 大韓民国 2
90 トルコ 2

 

なお、WhatsAppグループの管理者は、上記の表から除外してある。また「スペイン」の人数は、私のように現地でSIMカードを契約した人の数も含まれていると思われるため、スペイン出身者の人数を反映しているとは限らない。

左側通行

スペインの道路は右側通行だ。ヨーロッパの大多数の国が右側通行を採用しているので、これ自体は特段驚くべきことではない。ところがである。ビルバオのメトロやバスク鉄道、それからマドリードのメトロ、どれも左側通行なのだ。これはどういうことなのだろうか。

 

鉄道がすべて左側通行かというと、そうでもないらしい。スペインの主要都市を網の目のように結んでいる国鉄 Renfe は、基本的には右側通行なのだ。

 

左側通行を採用しているマドリードメトロ

 

Googleで調べてみたところ、まず真っ先に「マドリードメトロはなぜ左側通行なのか」というページがいくつも見つかった。主に2つの説があるそうだ。

 

まず1つ目の説は、1924年までスペインの道路は左側通行だったため、当時の鉄道もそれに倣ったというものだ。自動車が普及する前の交通手段といえば、馬車が主流だ。人口の大多数が右利きであることを踏まえると、馬車の運転手は右手で鞭を持つことになる。この状態で右側通行をすると、歩行者に鞭が当たってしまう危険性があるわけだ。そういうわけで、左側通行が採用されていたらしい。

 

2つ目の説は、イギリスの影響だ。鉄道発祥の国・イギリスの鉄道をモデルとしてマドリードメトロが建設されたというものだ。

 

しかし、これではバスク地方一帯の鉄道がすべて左側通行であることは、まだ検証できていない。さらに調査を続けてみた。

 

avpiop.com

 

このブログによると、

... porque los primeros coches que se adquirieron eran británicos y llevaban el puesto de conducción y demás especificaciones técnicas adaptados a ese modo de circulación.

 

最初に導入された車両がイギリス製であり、運転台の位置やその他の技術仕様がこの状態(左側通行)に適合していたからです。

とある。なるほど、こちらもやはりイギリスの影響というわけか。バスク地方から大西洋を隔てた対岸はイギリスである。当地の製鉄業にはイギリス資本も多く参入していたようなので、彼の地から最新技術がいち早くもたらされたのはごく自然な流れだろう。とはいえ、最初の車両がたまたまイギリス製だったからといって、バスクの鉄道がどれも左側通行で整備されることになるのか、という点は議論の余地がありそうだ。ましてや黎明期の鉄道は単線である。複線化されるまでは、進行方向はさしたる問題とはなるまい。

 

他にもいくつかの文献に当たってみた。

 

historiastren.blogspot.com

 

このブログを読むと、左側通行採用の背景には、スペイン各地の民間企業による鉄道敷設と、国有化の歴史が絡んでいることがわかった。複線化が進められた当時、スペインにはMZACompañía del Norte(直訳すると「北部会社」)いう2つの大手私鉄が存在したそうだ。MZAが右側通行であったのに対し、Compañía del Norteは、単にライバルの反対のことをしたくて左側通行を採用したのではないかと、ブログの筆者は考えている。その後、1941年に両者が統合され国有化された際、原則として右側通行を採用することに決まったそうだが、バスク地方を含む「北部会社」の鉄道は、左側通行が維持されたとのことだ。

 

なお、鉄道において左側通行・右側通行を切り替えるには、膨大なコストがかかるため現実的ではない。信号を上下線の方向に合わせて変えなければいけないし、渡り線(複線において、2つの線路の間をまたぐ線路)の位置や方向など、線路自体も作り替える必要があるだろう。韓国で日本統治時代の影響を排除しようという試みが行われた際、鉄道を右側通行に変更するための費用を試算したところ、数兆ウォンに上ることが判明し、実現しなかったくらいだ。

 

また、バスク地方ピレネー山脈を挟んでフランスと国境を接しており、バスク鉄道はフランスの港湾都市バイヨンヌまで線路がつながっている。フランスの鉄道は左側通行であるから、左側通行は都合が良かったのかもしれない。

 

これらの因果関係を紐解くには、時系列や資本関係などを調べる必要があるだろうから、素人の疑問を解くにはこの程度で良しとしよう。

 

ともかく、バスクでは鉄道は左側通行ということだ。

 

Casco Viejo 駅を出発するバスク鉄道の車両。ライトがテールランプであることに注意。車両は右手から左手に進んでいる。

バスク人の足跡

バスク人は、昔から操船術に長けている民族として知られていたようだ。かつて大航海時代には、多くのバスク人が船乗りとして世界中を駆け回った。かの有名な宣教師フランシスコ・ザビエルも、船乗りではないが、遠路はるばる日本までやってきたバスク人の一人だ。

 

私のアパートの大家さんというかホストマザーも、祖父は船乗りだったらしい。先祖は遠くフィリピンにまで赴いていたようで、スケールの大きさを実感する。フィリピンは、1898年までスペインが領有していたという歴史がある。江戸時代には、日本の銀がマニラへともたらされ、スペインの海上交易と金融経済に間接的な影響を与えていたとのこと。

 

スペインの世界進出を支えたバスク人の足跡は、世界各地に残されている。ここでは、日本から海を隔てて隣り合う国・フィリピンにおける彼らの足跡を訪ねてみたい。

 

まず、人類史上初の世界一周を成し遂げたマゼランの一行には、多くのバスク人の船乗りが含まれていたそうだ。マゼランはキリスト教への改宗に抵抗する現地の酋長ラプラプ王に殺害され命を落とすのだが、マゼラン亡き後に船団を率いたエルカーノという人物はバスク州ギプスコア県の出身だ。さらに初代フィリピン総督となったレガルノという人物もバスク人だし、二代目の総督もこれまたバスク人だという。

 

そうした彼らの貢献を反映してか、フィリピンにはバスク地方に由来する地名がある。私が住んでいるのはスペイン・バスク自治州ビスカヤ県だが、フィリピンにはヌエバビスカヤという名前の州が存在する。「ヌエバ」はスペイン語で「新しい」の意味だから「ニューヨーク」とか「ニューハンプシャー」と同じ類の名前だ。実際に、ヌエバビスカヤ州の紋章の一部には、ビスカヤ県の紋章が取り入れられている。

 

フィリピンに定住し、今に至るまで現地社会で成功を収めているバスク人も多いようだ。フィリピンで最古かつ最大の財閥「アヤラ財閥」は、バスク州アラバ県にルーツを持ち、先祖は19世紀にフィリピンに渡ってきたという。今では銀行や不動産、通信会社を傘下に収める大きな企業グループに成長している。そのほかにも、中小さまざまな財閥が、バスク人によってつくられたそうだ。

 

むろん、バスク人としてのアイデンティティは時代とともに希薄化しているようだが、バスク人の航海術と、独特の結束力が、遠く離れたアジアの発展(と呼ぶか簒奪と呼ぶか)に寄与したのであれば、その足跡は記憶に留める価値があるだろう。また、彼らが故郷を離れて遠く海外を目指した理由には、何世紀にもわたるバスク民族への弾圧があったことも付け加えておく。

Aldapan Gora

ビルバオに到着して2日目のこと、涼しくなってきた時間帯に街歩きをしていると、石造りの立派な建物の前で、何やら人だかりができているのに気づいた。近くに行って見てみると、若い男女数名が、ウクライナの国旗を背景にダンスを披露していた。日曜日の夕方ということもあり、沿道では多くの群衆が彼らのチャリティー・パフォーマンスに温かい声援を送っていた。

 

 

おもむろにスマホを取り出し、数秒間、彼らのダンスを録画した。その時に流れていた音楽のメロディーが、家に帰ってからも耳から離れない。「アコーディオンの音色と、ダンスの軽快なステップに合わせたかのような若干ハイテンポなメロディは、ウクライナの広大な草原のイメージにピッタリだな。これはウクライナの伝統音楽に違いない」なんて思いつつ、Siri に曲名を尋ねてみた。すると・・・

 

www.youtube.com

なんと、ここバスク地方の音楽だったのだ。

 

この曲の名前 Aldapan Gora は、バスク語で「丘の上」という意味で、歌詞はすべてバスク語で書かれている。バスク語と言われてもピンとこないと思うので、冒頭からサビまでの歌詞を書き出してみた。字面を見ると、スペイン語や英語とはまったくかけ離れた言語だと感じるはずだ。それもそのはず、バスク語は、他の言語との関係性が解明されていない「孤立言語」なのだ。

 

Mendian gora, burua galtzen dut maizHerriko kaletan sarritan galdu izan naizNork bereizi zituen kultura, lurra sua ta ura?Gizakion arteko lotura, ere ez al da natura?
 
Aldapan gora, pausorik pausoAldapan behera, auzorik auzoGaztainondo ta pagoEskultura arraroKaleak edo mendiak zerk galtzen gaitu gehiago?
 
興味がある方は、歌詞を見ながら曲を再生して、バスク語の語感を感じてみてほしい。
 

なお、この曲をリリースした Huntza というグループは、2014年にビルバオで結成されたフォークロックバンドだそうだ。ウィキペディアには日本語のページもある。てっきり何百年も前から継承されてきた伝統歌謡のリミックスなのかと思ったが、完全オリジナルな曲のようだ。それでもこの曲は「YouTubeで最も多く再生されたバスク語の音楽」になったみたいだから、きっとバスクの人々にとっても新鮮な音楽だったのだろう。伝統を活かした新しい音楽が生まれているって素敵だなと感じた。そしてそうしたコンテキストを重んじながら、別々の文化圏に由来する音楽と踊りをなんの不自然さもなく融合させ披露したウクライナの若者たちにも、改めて盛大な拍手を送りたい。

 

ja.wikipedia.org