I think is a good idea
今回の話題は、若干取り扱いにくいテーマである。なぜなら、スペイン人が使う英語の「よくある間違い」を例に挙げ、そこに現れている英語・スペイン語間の文法的差異を見出すという試みだからだ。したがって、スペイン人の英語レベルをあげつらうといった意図は全くないということを、あらかじめ念押ししておきたい。
ここでは、2つの例を紹介する。
主語の it の欠落
次の文章を、よく目を凝らして読んでみてほしい。
I think is a good idea.
正しくは I think it is a good idea. としなければならないが、it が欠落している。なぜだろうか?
この文に限らず、何度か同じパターンの間違いを目にしたことがある。この間違いは、スペイン語において主語の省略が起こるせいだと考えられる。
上の例文をスペイン語に直訳した文章:
Yo creo que (esa) es una buena idea.
において、it に相当する括弧書きの部分は省略される場合がほとんどなのだ。
英語のbe動詞は、スペイン語のそれと比べるとかなり曖昧である。英語では、are は
- 一人称複数 (we)
- 二人称単数 (you)
- 二人称複数 (you)
- 三人称複数 (they)
の4種類の人称に対応する。そのため、be動詞の活用形から主語の人称を特定することはできない。しかしスペイン語では、下記の表を見るとわかるように、動詞と人称がより細かく対応している。主語の人称代名詞を省略しても、文章の理解に支障をきたす可能性が低いため、省略が頻繁に発生するのだ。
【英語】
単数 | 複数 | |
一人称 | am | are |
二人称 | are | are |
三人称 | is | are |
【スペイン語】
単数 | 複数 | |
一人称 | soy | somos |
二人称 | eres | sois |
三人称 | es | son |
加えて、これは私の推測だが、it is が it’s の形になって
I think it's a good idea.
となると、it の音が消えて無くなったように聞こえる。it’s a good idea と is a good idea は音節の数が同じで、音も似ている。
ヨーロッパ人は、学校の授業だけではなく、テレビ番組や観光客との会話などで英語に触れる機会が多い。日常的に耳にするフレーズをそのまま書き起こした結果、it を書き漏らしてしまう、あるいは it を省略してもよいと誤解してしまう可能性は否定できない。
stablish
スペイン人の同僚が書いた英文で stablish という単語を見かけた。これは establish の間違いである。単純なタイプミスかもしれないが、私は establish を stablish と間違えて覚えてしまった可能性が高いと考えている。ではなぜ冒頭の e が欠落しているのか?
これにはスペイン語のsの発音と綴りのルールが関係している。
スペイン語において、[s+子音]から始まる動詞や名詞というのは原則存在せず、代わりに [es+子音] のように綴られるのだ。
英語との対応関係がある単語をいくつか列挙してみよう。
英語 | スペイン語 | 品詞 |
study | estudiar | 動詞 |
student | estudiante | 名詞 |
special | especial | 形容詞 |
Spain | España | 名詞(固有名詞) |
このように、s- と es- は規則的に対応していることが多い。したがって、件の同僚は「スペイン語で es から始まる単語は、英語では s から始まる」というパターンを経験的に覚えていたのだろう。そのせいで、establish のように es から始まる英単語さえも、s から始まると勘違いしてしまったのではないか、と私は考えている。
ちなみに、スペイン人は study を "estudy" のように、e の音を入れて発音していることが多い。/s/+ 子音 から始まる音には馴染みがなく、発音しづらいのだろう。日本人にとって th から始まる英単語の発音 /θ/ が難しいのと同じように、母語に存在しない音は、習得が難しいのだ。
なお、Quora に同様のトピックの質問が投稿されていたので、興味のある方はご一読いただきたい。
ここからは余談として、es から始まる英単語の謎に迫ってみたい。英語には escape, estimate といった動詞や especial, especially といった形容詞・副詞がある。これらの単語のスペルはなぜ "scape" や "stimate" ではないのだろうか? especial に至っては、冒頭に e がない specialという別の単語もあるではないか?
es で始まる英単語の謎は、古フランス語に由来するようだ。もともとラテン語では s- の形だった単語が、どういうわけか古フランス語で es- の形に変化した。スペイン語ではこの es- が現在まで残っているのに対し、英語では一部が s- の形で、一部は es- の形のまま取り込まれたとのこと。またラテン語から英語へと、古フランス語を経ずに変化した単語は、現在まで s- のまま残っているそうだ。
ついでに、古フランス語の es- のうち est- の形の単語は、現在のフランス語では et- のように変化しており、s が欠落していることにも触れておきたい。
英語 | スペイン語 | 古フランス語 | フランス語 |
study | estudiar | estudier | étudier |
student | estudiante | estudiant | étudiant / étudiante |
s の欠落は、Debuccalization「非口腔音化」と呼ばれる変化に起因する。子音 s の音が h に変化し、さらに h の音が消滅した結果、綴りにおいても s が省かれるようになった。こうした音の変化は、言語によらず普遍的である場合も多い。実はスペイン語においても、フランス語が辿ったのと同じような s→h→∅(消滅) という変化が今まさに起きている。
例えば、スペインの街角では、Muchas gracias(どうもありがとう)を Mucha gracias のように s を発音しない人がかなり多い。
こちらは日系アルゼンチン人の方のインタビュー動画だが、0分3秒のあたりでEscobal(エスコバル)という地名を、s の音が h になった「エヒコバル」のように発音しているのが聞き取れるだろう。
また、昨年のサッカーW杯でアルゼンチン代表の応援ソングとして有名になった「Muchachos」という曲では、s の音が発音されていない箇所が数多くある。
【2023/01/18 追記】
先日、スペイン南部のアンダルシア地方を旅してきたのだが、語尾の s が欠落しているのを何度も耳にした。アルハンブラ宮殿を眺める有名な展望台は San Nicolás だし、数字の 2 は dos である。しまいには「ありがとう」も Gracias だった。
まとめ
世間では
日本人は there is/are 構文を使いがちだ。日本語の「〜があります」の対訳で使い勝手がいいからだろう。
といった言説が飛び交っている。「主語がデカい」と批判されそうだが、しかしそのような傾向が、母語の文法に引きずられた結果なのであれば、主語は決してデカくはない。こうした傾向を「ネイティブはそうは言わない」などとネガティブに捉えるくらいならば、むしろ他の言語の影響を受けた新しい英語表現として受け容れていくくらいで良いのではないか。今回の記事を通して、日本語話者のみならずスペイン語話者にも、英語を使う際に特有の傾向があることを理解いただけたはずだ。言語はいつの時代も変化している。世界共通語となって久しい英語に、各言語から新たな表現が加わってゆくのは必然と言えるのかもしれない。