100日後にスペインに行く人

スペイン語初心者の学習記録

新鮮な日本語

日本語では、外国語の単語や人名・地名を、カタカナを使って表現することが多い。カタカナは表音文字なので、現地語の発音をそのまま日本語に取り込むことができるからだ。そのため、Coca Cola というアメリカの飲料ブランドは「コカコーラ」と表記できるし、現在の米大統領の名字 Biden は「バイデン」と書き表せる。何を当たり前のことを、と思うかもしれないが、表音文字がない中国語では、それぞれ「可口可乐」とか「拜登」のように、当て字を使う必要がある。誰がどのようにして当て字を考案しているのか、大変興味深いが、ともかくカタカナというのは、外来の概念を取り入れるに当たってとても便利なツールと言える。

 

さて、スペインには Siesta という独特な習慣がある。Siesta は、昼食を食べた後に取る昼寝、さらには昼寝をするための長めの昼休み、また昼休みに仕事場から一旦帰宅する習慣、といった概念を包含した単語だ。こうした文化的背景を持つ単語は、単に「昼寝」や「昼休み」といった日本語の単語で置き換えるのはナンセンスである。結果として「シエスタ」のように、カタカナで音だけを表現するという手法が取られている。こうした「カタカナ語」は、発音のみを取り入れて、漢字による意味づけがなされていないため、言語学的な定義はともかくとして、素人の感覚では「日本語の単語」と呼べるのか微妙だと感じる*1

 

さて、こうした事例から導かれるのは、ある言語の語彙には、その言語を話す人びとの間に、対応する概念が必ず存在しているということだ。言い換えれば、その言語圏に存在しない概念を表すような単語は存在しない。

 

先ほど例に出した Siesta の場合、日本語話者の間には、日常的に昼寝をしたり、昼休みを長く取るといった行為や習慣が存在しない。したがってスペイン語の Siesta に対応する日本語の語彙は存在しないし、存在する必要性が無かったというのが正しい。

 

また「米」と「ごはん」は、英語ではどちらも rice と訳される。米を主食としている日本語圏では、日常生活を送る上で両者を区別する必要性が高かったため、別々の単語が使われるようになったが、英語圏にはその必要性が低かったということだ。このように、訳語が存在するものの、1対1ではなく、1対nの関係になっている場合もある。これも、言語が文化的背景と強く結びついている証左と言えるだろう。

 

前置きが長くなったが、対応する概念が日本語圏に存在しない単語は、カタカナ表記で日本語に取り込まれるケースが多いように感じる。カヤック、ダイビング、バーベキュー、アコーディオン、スパゲッティ、キルト*2・・・。裏付けとなるデータがないので断定はできないが。

 

しかし一方で、漢字を使った「訳語」が生み出されることもある。明治時代には、西洋の概念の流入に伴って、例えば福沢諭吉が Liberty の訳語として「自由」という単語を考案した。これらは和製漢語とも呼ばれ、漢字発祥の国・中国にも逆輸入されている。近年でも学術分野などを中心に新たな訳語が生まれており、最近では日本遺伝学会が dominant / recessive の訳語を「優性・劣性」から「顕性・潜性」に変更したことが注目された。元の単語の意味を解釈し、ふさわしい漢字を組み合わせて単語をつくる(この場合、誤解を招きかねない「優性」の優の字に取って代わる、別の字を探す)というプロセスが行われていたというわけだ。カタカナと異なり、漢字には字そのものが意味を持っているため、初見でもある程度意味を推測することができるという強みがある。


そのほかに「複合語の直訳」とでも言うべきものがある。例えば Climate Change という2単語からなる複合語は「気候変動」と訳されるが、これは1単語ずつ訳を当てたものといえる。複合語は修飾・被修飾の関係になっているので、自由・顕性・潜性といった複合語でない単語に比べて、より一層意味を理解しやすいはずだ。

 

しかしである。漢字を用いた訳語がカタカナ語に比べて理解しやすいといっても、その言語圏、あるいは自分自身の中に対応する概念が無ければ、やはり受容しづらいことには変わりがないはずである。気候変動は、今やニュースでもよく耳にするし、熱中症や異常気象、自然災害といった形で、多くの人が身近な問題として感じている現象だろう。では「再帰関数」とか「破壊的代入」はどうだろうか。あるいは「自己免疫性後天性凝固因子欠乏症」は?

 

それぞれコンピュータサイエンスと医学の用語で、どちらも外国で生まれた単語の訳語のはずだが、背景知識がなければ理解しづらいはずだ。それでもきっと、日本のエンジニアの誰かしらは今日も再帰関数のコードを書いているだろうし、自己免疫性後天性凝固因子欠乏症に苦しんでいる難病患者も国内に何人もいるのだろう。

 

しかしながら、漢字で表記された単語でありながら、国内にひとつとして存在しない概念を表すものもある(これが今回の主題なのだが、前置きがずいぶんと長くなってしまった)。たとえば「大統領」という単語は、日本の小中学生でも当然のように知っているはずだが、この国に「大統領」なる役職は存在しないし、存在した歴史もない。なお、President は先に述べた1対n対応の単語で、大統領の他に社長、学長、国家主席など、さまざまな対応がある。

 

「枢密院」というと、なんだか推理小説か何かに出てきそうな響きだが、イギリスで国王への助言を行う諮問機関 Privy Council の訳語で、実は戦前までは日本にも存在していた。「国家警察」はどうだろう。スペインでは、国と市町村が別々に警察を設置している。そのことを知らなくても「国家」と「警察」からなる複合語なので、意味の推測はつくはずだが、聞き慣れない響きで新鮮味があるはずだ。あるいは、古い洋画が好きな方は、20世紀初頭の「禁酒法」時代のアメリカをご存知だと思うが、禁酒法なる法律は我々の間には存在した試しがない。

 

なお「日本語圏」という言い回しを所々で使っている理由は、言語圏と国家は本来一致するものとは限らないからだ。確かに日本語が公用語の国は日本しかない。しかし、例えば19〜20世紀に日本から多くの移民が渡ったブラジルでは、入植する農園が割り当てられることを「配耕」とか、引き上げることを「退耕」と呼んだりするそうだ。これらはまさに、漢字も発音も日本語ではあるものの、現地の事情に即して生み出された、ブラジル生まれの単語である。

 

このように「漢字で書かれた日本語の単語なのに、対応する概念が日本語圏に存在しない」というのは、知的好奇心をくすぐる面白いテーマだと感じた。

*1:情報技術分野では、多くの単語がカタカナ語で取り入れられているために、日本人のITリテラシーが低い原因となっているとの指摘もある。早速ながら「リテラシー」とはなんぞや...。

*2:スコットランドの伝統衣装。スカートのような見た目だが、男女問わず身につける。