Valenciano
2022年から2023年への年越しは、同じ企業研修プログラムでヨーロッパに来ている友人たちと、地中海に面したスペイン第3の都市・バレンシアで過ごした。
ここバレンシア州では、Valenciano「バレンシア語」という "言語" が公用語とされている。言語学的にはカタルーニャ語の方言の一つとみなされており、文法上の違いはほとんどない。「言語学的には」と前置きしたのは、あたかもバレンシアがカタルーニャに隷属するかのような「方言」という扱いはバレンシア人たちの沽券に関わるようで、世間一般や政治家の間ではこうしたイデオロギー論争が今なお尽きないからである。
その論争はいったん置いておくとして「カタルーニャ語とほとんど同じ」と言われると「"ほとんど"に含まれない、わずかな違いは何なんだ?」というのが気になってしまうものだ。今回の記事の出発点はそこにある。
ここでは、滞在中に気がついた事例を2つ紹介したい。
Eixida
バレンシア空港に降り立った観光客が最初に目にするであろう標識に、実はバレンシア語を特徴づけるような単語が書かれている。それは「出口」を表す Eixida や、その複数形で「出発便」の表記などに用いられている Eixides だ。動詞形は eixir で、語源をさかのぼると、ラテン語の exeo という動詞に行き着く。何を隠そう、この単語は英語の exit の語源でもある。
その一方で、カタルーニャ州では Eixida ではなく Sortida という単語が用いられている。動詞は sortir だ。フランスを旅したことがある方ならば、駅の標識で見かける単語 Sortie と綴りが似ていることに気づくかもしれない。両者の共通の祖先は、ラテン語よりももっと新しく、現代フランス語の源流のひとつで、絶対王政下で徐々に消滅していった「オック語」にある。カタルーニャ語の辞書にも eixida という単語はあることにはあるようだが、例えば「一戸建て住宅にある中庭への出入口」などを表すらしく、空港や駅で見かけることはないそうだ。
Per favor
同じく空港つながりで、今度は文字ではなく音に着目してみよう。バレンシア空港では、バレンシア語のアナウンスが流れている。最初はてっきりスペイン語のアナウンスだと思い込んでいたのだが、per favor(ペルファボール)というフレーズを聞いた瞬間「あれ?これはスペイン語じゃないな!」と気づいたのである。
このフレーズ、英語の please に相当し、スペイン語では por favor(ポルファボール)と言う。空港であれば「マスクの着用にご協力お願いします」といった文脈で頻繁に使われるフレーズだ。
個人的に興味深いと感じたのは、イタリア語にも同じようなフレーズがあり、per favore(ペルファボーレ)ということだ。1つ目の単語がバレンシア語と同じ per になっている。
言語の伝播は必ずしも陸路を通して行われたとは限らず、海を介した人々の交流が異なる言語の接触をもたらしてきた。ましてや、紀元前から交易や漁業が盛んに行われていた地中海においてはなおさらだ。そう考えると、イタリア語やその源流であるラテン語の音が、海を渡ってバレンシアにもたらされた可能性はないだろうか?
そこで両者の語源を調べてみた。スペイン語の por の語源はラテン語の pro にあるようだが、Wikipediaには
From Classical Latin prō, probably reshaped by analogy with the preposition per.
とあり、per が変化して por となったと推測されている。スペイン語、およびポルトガル語とフランス語が per → pro → por という変化を辿ったのに対して、バレンシア語とイタリア語の per は、ラテン語の per をそのまま継承したとされている。他の要因も考察すれば、先ほどの仮説が成り立つかもしれない。
比較再構のような話をするのはここまでとしておこう。我々の興味は、バレンシア語とカタルーニャ語の違い、すなわち「カタルーニャ語では、バレンシア語と同じく per favor が用いられているのか?」ということだった。
答えは否だ。
バルセロナの交通機関で見かけるのは、per favor とは似ても似つかぬ si us plau というフレーズ。3単語からなるこのフレーズを、各言語に逐語訳してみた。
- スペイン語:si os place
- フランス語:s'il vous plaît
- 英語:if it pleases you
- 日本語:もしそれがあなたを喜ばせるならば
スペイン語の si os place とは、綴りに類似性が感じられるものの、スペイン語においてこうしたシチュエーションではもっぱら por favor が使われている。一方でフランス語の s'il vous plaît は、交通機関のアナウンスから店員さんの呼びかけまで、あらゆる場面で耳にするのだ。
ここまで挙げた例から共通点を見出すとなると、バレンシア語はスペイン語と同じグループに、カタルーニャ語ではフランス語と同じグループに属すると言える。ただしここには、あくまで「語彙の選択において」「この2つの事例においては」という条件がつくことを忘れてはならない。発音、単語、文法など、言語にはさまざまな側面があり、複雑だ。言語と方言を分ける明確な基準も定まっていない。
同じ語源を持つ単語(同根語, Cognates)が存在しても、それらの単語が同じ文脈で用いられるとは限らない。中国語では、日本語の「立入禁止」の意味で「進入」という単語を使うことがあるそうだ。日本語にも「進入」という単語は存在するが、使う場面が微妙に異なる。スペイン語でマスク着用を促すポスターには obligatorio という形容詞が使われているが、その下にある英訳には、同根語の obligatory ではなく mandatory が書かれている。
このように、異なる言語間での単語やフレーズの傾向を研究してみたら面白そうだ。